観てきました。
映画『JOKER』
公開初日のレイトショー。
最初の期待は前評判もいいだけに、『ダークナイト』のヒースレジャー(ジョーカー役)を超えることができるのか?
ということでした。
ですが結論から言うと超えていなかった(個人的解釈)
もちろんホアキン・フェニックスは間違いのない演技。怪演。
映画全体としてみたら間違いのない傑作。
話もまとまっていて、え?結局どういうこと?
みたいなのもなし。
なんですが、ヒースレジャーのジョーカーは超えられなかった。
なぜかというとヒースの「狂気」に勝てなかったということ。
「狂気」「恐怖」という点において勝てなかったと思う。
それはなぜか?
それはこの物語が、ジョーカー誕生の話であるから。
主人公のアーサーが、最初からジョーカーではないから。
この映画はジョーカーになるアーサーに感情移入してしまう。
しだいに水からぬるま湯になるような感じだ。
境が徐々に変わっていくので、
観ていくうちにアーサー(ジョーカー)の心境を理解できてしまう自分がそこに存在してしまう。
つまり、ヒースのジョーカーは容赦なく、行動が読めない狂気に比べ、今回の『JOKER』はアーサーの悪に変わっていく心境を理解して受け容れてしまうことにある。
これは、誰でもこの環境になれば悪になる可能性を示唆している。
「他」として認識するヒース演じるジョーカーと
「自」として認識するホアキンのジョーカー。
この違いだと感じた。
「自」と感じるがあまりに恐怖は感じずに共感さえ産まれる。
よって「恐怖」と「狂気」のジョーカーを感じることができなかったので、超えられなかった。と感じたまで。
だから超えられなかった。というのは演技、映画の評価ではない。
映画は素晴らしい。
これは「心を観る映画」だと思っている。
この映画を観て気づきが多いと感じる人ほど、人の事を想う人だ。
誰でもジョーカーになる。
誰でもジョーカーになってしまう。
誰でもジョーカーになる環境は存在する。
人は環境によってつくられる。
目の前の人に対してもっと関心を持てるかどうか。
それがどんなに大切なことかを教えてくれる映画。
ジョーカーが誕生した時、
悪事を働いた時、
変な爽快感を覚えてしまう。
ジョーカーは誰の心にもいる。
PS
気づきメモ
・最高の底辺
・存在と環境
・心を観る映画
・対話
・特に存在